志賀理江子 なぬもかぬも 2025 「山城知佳子×志賀理江子 漂着」展示風景 アーティゾン美術館 © Lieko Shiga. Photo: kugeyasuhide
アーティゾン美術館の開館以降毎年開催している、石橋財団コレクションと現代アーティストとの共演、「ジャム・セッション」展。第6回となる本展は、沖縄と東北という異なる土地に根ざし、歴史や記憶に向き合ってきた山城知佳子と志賀理江子を迎える。会期は10月11日〜2026年1月12日まで。企画担当は同館学芸員の内海潤也。
本展の展覧会名は「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×山城知佳子×志賀理江子 漂着」。これには偶然性と必然性、外部からの流入と内部の応答という二重の意味が込められているという。それぞれの歴史や記憶に向き合ってきた両作家の実践が交錯する空間は、時間、場所、身体、記憶が響き合う場となる。

6階では山城知佳子の新作《Recalling(s)》(2025)を展示。写真、映像、パフォーマンスを組み合わせ、沖縄の歴史と政治状況を視覚化してきた山城は、近年、父・山城達雄の記憶をたどる作品を制作してきた。達雄は幼少期にパラオ共和国(パラオ語では「ベラウ」)へ渡った経験を持ち、その記憶を小説として、また娘に語りとして伝えてきた。本作は《彼方(Anata)》(2022)、《ベラウの花》(2023)に続く最新作で、6つの映像と布による大規模なインスタレーションとして構成される。

本作の重要な舞台となるアンガウル島は、複雑な植民地史を刻む場所である。パラオは第一次世界大戦勃発後、ドイツによる植民地支配から日本の占領下に置かれ、1920年には国際連盟の委任統治領となった。なかでもアンガウル島は、肥料や火薬に使われるリン鉱石を豊富に産出し、ドイツ占領下から始まった採掘事業は日本統治時代にも引き継がれた。1933年には総人口950人弱のうち、200人を超える日本人が居住し、戦間期には活況を呈していた。しかし2020年には総人口が約120人にまで減少し、日本人街の痕跡はほとんど失われた。現在、島には採掘跡の湖や工場遺構、戦闘機の残骸が残り、植民地支配と戦争の痕跡を留めている。
タイトルの《Recalling(s)》は「思い出す/呼び戻す」を意味する「recall」の現在分詞の複数形で、複数の記憶が重層的に呼び戻される運動を示す。そして本作の起点となるのは、アンガウル島へ向かう船上で鳥を指差した幼い達雄が、沖縄の言葉「とぅいや」を「鳥」と訂正されたエピソードだという。

映像にはパラオの風景に加え、沖縄の音楽文化や個人の記憶が重ねられる。たとえば左のスクリーンから聞こえてくる曲。これは伝説のジャズシンガー齋藤悌子が歌う「ダニー・ボーイ」という曲であり、ベトナム戦争期に別れの歌として歌われた。いっぽうで右側のスクリーンでたびたび流れる喜納昌吉の「ハイサイおじさん」は、陽気なリズムの裏に沖縄戦の心的外傷を潜ませる。さらにこれらに東京大空襲で家族を失った亀谷敏子の語りが加わり、沖縄、東京、パラオという複数の土地の記憶が交錯する。6つの映像のうち4つは同期再生され、過去と現在、個人史と共同体の歴史を縫い合わせるように進行する。

山城が石橋財団コレクションから選んだのは、アボリジナル・アーティストであるジンジャー・ライリィ・マンドゥワラワラの《四人の射手》(1994)という絵画。3年前に出会ったこの作品の色彩と筆致に強く惹かれ、自身の制作との響き合いを感じたという。展示もこの絵画との出会いから始まる。

また本作で山城は「布」を重要な要素として多用している。布は様々な記憶を映し出すスクリーンとなり、戦後のバラックのような仮設的な生活空間を想起させ、時代の記憶を象徴する。入口付近には大きなパラシュートが配置され、その近くに展示された《四人の射手》と響き合いながら、共同体的な暮らし、沖縄の原風景、近代の戦争史といった多層的なイメージを生み出している。鑑賞者は空間を歩きながら、様々な語りに出会い、自分自身の記憶と交錯させることで、誰かの頭のなかを巡る旅を体験する。

5階へ降りると、かすかにカエルの鳴き声が聞こえてくる。会場に足を踏み入れるとその音は徐々に大きくなり、ほかの効果音と響き合い始める。ここに展開されるのは、志賀理江子の新作インスタレーション《なぬもかぬも》(2025)だ。

2008年に宮城県へ移住し、土地に根ざした制作を続けてきた志賀は、東日本大震災以降、「復興」への問いから人間精神の根源を探求してきた。3年の構想を経て完成した本作の背景には、10代から感じていた現代社会の清潔で便利な環境への違和感と、東北で目の当たりにした社会の矛盾がある。
作品の起点となったのは、偶然すれ違ったトラックのフロントガラスに大きく掲げられた6文字「なぬもかぬも」との出会い。東北沿岸部の方言で「何でもかんでも」を意味するこの言葉を、志賀は状況や話し手によって意味が変わる柔軟な言葉としてとらえた。以降、石巻市を起点に東北各地を巡り、海洋業や運送業に携わる人々との対話を重ねてきた。

展示の中心をなすのは、高さ4.2メートル、全長200メートルを超える巨大な「写真絵巻」だ。ターポリン素材を用いたこの作品は、既存の壁を覆い、一部では壁そのものとなって、展示室に入り組んだ動線を生み出す。来場者は迷路を歩きながら、方向感覚を失い、次々と現れるイメージに包まれていく。そして絵巻に映し出されるのは、鯨の内臓、タコと漁師、軍事演習で奪われた土地、カエルなど、現実と幻想が入り混じるイメージ。志賀の写真は、その生々しい質感と映し出される不思議な風景で見る者の感覚を揺さぶる。また会場に聞こえる、人間の言葉とは異なるカエルの鳴き声のリズムと響きは、身体に直接語りかけ、来場者を写真の「鑑賞者」から体験の「参与者」へと変えていく。


その不思議な空間と響き合うのは、志賀が選んだ石橋財団コレクションの3作品だ。壁に書かれた物語を手がかりに会場を進めば、ときに暗闇からアルベルト・ジャコメッティの《歩く人》、瀧口修造の《無題》(1972)、ヘンリー・ムアの《プロメテウスの頭部》(1949)が立ち現れる。

記憶の迷路のように展開されるふたりの作家のインスタレーション。これまでの主題を深化させつつ、新たな展開を見せる新作は、強い視覚・聴覚体験と深い思索を促す。記憶、災害、移動、そして再生といったテーマが、コレクション作品と交差しながら空間全体で表現される本展を体験してほしい。
灰咲光那(編集部)
灰咲光那(編集部)