「Pink」(オオタファインアーツ)展示風景 撮影:鐘ヶ江歓一 Courtesy of Ota Fine Arts
2025年12月9日から2026年1月24日まで、オオタファインアーツ(東京)でグループ展「Pink」が開催されている。女性性や可愛らしさと結びつけられてきたいっぽうで、主体性や連帯、抵抗など、文化や経験によって多層的な意味を帯びてきたピンク色。ブブ・ド・ラ・マドレーヌ、マリア・ファーラ、半田真規、草間彌生、嶋田美子、チェン・ウェイ、ミン・ウォン、¥ouadaの8名のアーティストが、フェミニニティとクィアネス、享受と葛藤、可愛さと抵抗といった多様な視点からピンク色を読み解く。本展を人類学者の横山紗亜耶がレビューする。【Tokyo Art Beat】
私は……この質問が苦手だ。
そう感じたのは、私だけではないはず。
ちなみに、いまこの原稿を書いている私のパソコンの色は、ベビーピンクである。キーボードを打つ私のネイルは、ホットピンク。そんな私の装いは、ショッキングピンクのワンピース。座っているオフィスチェアも、膝掛けも、カーペットも、何もかもピンク色。私の日常は、子供の頃からこんな調子である。それでも、「ピンク色が好き」と言うのはいまだにためらう。なぜだろう?
言うまでもなく、ピンクは女性性と結び付けられてきた色である。幼い子供が着るフリルやリボンたっぷりのドレスから、ストリップクラブを照らす鈍い照明まで、ピンク色から連想される女性性の幅は広い。この幅広さは、魅力的であるとともに、かなり厄介である。
「Pink」という短いタイトルの本展が扱うテーマも、幅広い。かわいらしくて無垢なピンク。怪しくて如何わしいピンク。攻撃的で毒々しいピンク。「ピンク色が好き」という一言には到底おさまらない、めくるめくピンクの世界だ。

展示室でまず目を惹いたのは、マリア・ファーラによる大きな油彩画である。ピラティスをする女性たちを描いた《LOVE.MAGIC.JOY.FEMINISM》(2025)に目を凝らすと、カラフルなトレーニングウェアに合わせたペディキュアや、フクシアピンクを基調とした欧風のインテリア、女性たちの首元できらりと光るジュエリーに気が付く。
かわいい。きれい。素敵──細やかな描写に目を奪われながら、私はバービー人形で夢中になって遊んでいた少女時代の無邪気な気持ちを思い起こす。はやく大人の女性になりたくて、母のハイヒールを履いてみたりしていた頃の私だ。
ところが、絵の中の女性たちのひとりもこちらを向いていないことにふと気がつき、無邪気な気持ちは消え失せる。描かれている女性たちの顔は、下を向いていたり、完全に見切れたりしていて、鑑賞者からはほとんど見えないのだ。彼女たちに憧れのまなざしを向ける少女のつもりでいた私は、彼女たちを盗み見てもいたことに気がつかされる。

お菓子作りをする女性たちを描いた《St. Agatha Cake》(2025)では、繊細なレースやフリルをあしらったチェリーピンクのドレスの描写に心が踊った次の瞬間、テーブルに置かれたいちじくの実や、聖アガタケーキのチェリーを摘む女性の指が目に留まる。聖アガタケーキとは、中世シチリアの聖女アガタが、かつて総督の求婚を拒否した報復として、両乳房をむしり取られる拷問にあったという逸話にちなんで、乳房のかたちを模したシチリアの郷土菓子である(*1)。
性的な雰囲気が漂うこの絵においても、女性たちは誰ひとりとしてこちらを向いていない。ふと目が合うのは、画面の奥で部屋を覗き込んでいる犬だけである。露わになっている彼女たちの太ももや胸元に視線を向けるたびに、私は彼女たちを盗み見ている気分になった。しかし、この盗み見の感覚は、はじめてのものではない。

いつから、私は女性の身体を鑑賞物とみなすようになったのだろうか。いつから、私は「ピンク色が好き」と言うのをためらうようになったのだろうか。
ある2018年の調査によれば、ピンクは小学1年生から3年生の女子が選ぶ「好きな色」の1位である(*1)。しかし、その割合は学年が上がるごとに下がっていき、小学4年生と5年生では水色に抜かされている。「ピンク色が好き」と言うことを私がためらうようになったのも、小学校というはじめての社会に出てからだった。周りの女の子たちはどう見えるか、自分はどう見られているか──そんなことが気になりはじめた頃だった。
先の調査で興味深いのは、ピンクを「嫌いな色」に選ぶ小学生男子の割合が、女子以上に多いことだ。男女ともに「嫌いな色」の1位(「嫌いな色はない」を除いた場合)に選ばれているピンクであるが、その割合は女子のあいだで3〜15%であるのに対し、男子のあいだでは28〜32%にものぼる。また2024年に行われた別の調査によれば、20歳〜69歳の男性が選ぶ「苦手な色」の1位も、ピンクである(*3)。
やけに男たちに嫌われているという事実が、ピンク色と私の関係を難しくしてきたことは否めない。なぜなら、男に嫌われるというのは、男性的な価値基準が優位の社会では、かなり不利に働くからだ。

展示室の中央に進むと、パウダーピンクのチュール生地でできた天蓋が目に入る。その中には、3台のスマートフォンで構成される、ミン・ウォンによる映像作品《偽娘㊙恥辱部屋》(2020)がある。
ウォン自身がポルノ女優に扮して登場する本作品は、1960〜70年代の「ピンク映画」や、1970〜80年代の「日活ロマンポルノ」(*4)の文法を用いた映像を、スマートフォンという現代的な媒体で上映することで、時代とともに変化してきたポルノ作品の消費行為それ自体を再演してみせている。

ウォンが熱演するセックスシーンは、3つの画面に同時上映され、これでもかと「エロ」を見せつけてくる。同時に、男性であるウォンがポルノ女優になりきることは、男性によって男性向けに作られた「エロ」という鑑賞物を、クィアにずらす試みでもある。
作品名にある「偽娘(wěiniáng/ウェイニャン)」とは、日本語の「男の娘」に相当する中国語である。男性がかわいらしい女性に扮する偽娘は、2009年以降のSNSで広くみられるようになったいっぽうで、「伝統的な男性性」への危機として、モラル・パニックも引き起こしてきた(*5)。男性自身がかわいらしい鑑賞物になる行為は、「男性性」そのものをも危機に陥れるのだろうか。

ウォンが身につける人工乳房がボインボインと跳ねるのを見つめながら、なあんだ、男たちもピンクが大好きじゃないかと思った。ただ、天蓋のなかで眠る少女にせよ、妖艶な仕草で悩殺するポルノ女優にせよ、あくまで鑑賞物としてしか好きではない男が多すぎるのかもしれない。求婚を断った報復にむしり取られた聖アガタの乳房にふたたび思いを馳せ、私は少しでも主体性を見せた女性たちの身体やセクシャリティに対する攻撃について考えた。
展示室の反対側には、嶋田美子による油彩画がある。日活ロマンポルノが人気を博したのと同時期に活動を展開した「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合(通称、中ピ連)」を描いた作品である。
京都大学薬学部出身の榎美沙子によって創設された中ピ連は、当時の薬事法で禁止されていたピルの解禁などを求め、「♀」の記号が描かれたホットピンクのヘルメットを被って活動し、週刊誌などでセンセーショナルに報道された(*6)。1977年に中ピ連の解散会見を行う榎美沙子の写真をモチーフにした《自己決定権 千人針》(2023)の中央には、千人針(*7)を模した赤い糸の縫い玉で、「自己決定権」と書かれている。

戦後の日本においてピンクは、「エロ」の色だった。中ピ連や日活ロマンポルノが登場した頃のピンクは如何わしい色であり、現在のようなかわいい色となったのは、ピンク・レディーが大ヒットを飛ばした1970年代後半からである(*8)。如何わしいピンク色を自ら身にまとった中ピ連の女たちは、「エロ」の鑑賞物にされるか生殖の道具に切り詰められるかであった女性の性的な身体を自己決定しようとした。ピンク色から連想される「エロ」一辺倒の女性性を、女たち自らの手に取り戻そうとしたのだ。

¥ouada(ヨアダ)によるスプレーアートの作品《Two pleasures plus one (2)》(2025)も、性的なピンクを描いている。
ローズピンクに染まった耳と、ダークピンクに光る舌や唇。そのぼやけた輪郭からは、生温かな体温や、柔らかさ、皮膚の湿り気までが伝わってくる。そこにシルバーのごつごつとしたピアスがいくつも打ち込まれていることで、柔らかさと硬さのコントラストが際立っている。

ピンクは、身体の内側の温かくて、柔らかくて、弱い部分を連想させる色でもある。そのような脆弱な部分を傷つけてまでピアスを開ける行為は、哲学者の鷲田清一によれば、自分ではどうにもならない「身体という自然」を、自分のものにしようとする儀礼でもある(*9)。自ら傷つけることは、他者に傷つけられることの拒否でもあるのだ。
ピンク色を着せられ鑑賞物にされることを拒否し、自らピンク色を着てやった中ピ連の女性たちもまた、妊娠と中絶という自然と不自然をめぐる論争に挑んだ。ピンク色は、自然さと不自然さが、いかにどちらも恣意的であるかを浮き彫りにする。たしかに、人間の身体を含む自然界には、ピンク色が溢れている。いっぽうで、私たちが日常的に見かけるピンク色の多くは、人工的な発明品でもある。
私たちの身体のピンク色は、果たして「自然」だろうか。しばしばピンク色に描かれる唇や乳首、女性器、子宮も、ピンク色であってほしいという不自然な欲望を反映しているに過ぎない。美白、染色、ルージュにティント──ピンク色ではない身体を「自然」なピンク色に見せかける製品は、世界中に溢れている。

もちろん、ピンクが女性的な色であるという通念も、決して自然にもたらされたのではない。それは、歴史的に作られたものである。さらに言えば、男女二元的なジェンダーも、決して自然にもたらされたものではない。以上に挙げた例はどれも、繰り返し参照されることで、あたかも自然であるかのように見せかけられているに過ぎない(*10)。
ピンクという色は、たとえば女性として自然な装いというものが、いかに不自然であるかということや、男性として不自然な振る舞いというものが、いかに恣意的に決められているかということ、そして、いかに私たちが自然さにも不自然さにも抗おうとしてきたかを──ごく鮮やかに──明るみに出す。
いつしか私は、そんなピンク色の虜になったのだ。
「ピンクが好き」じゃない人も、めくるめくピンクの世界へようこそ。
*1——O’brien, S. (2021, February 5). How a Breast-Shaped Cake Became the Symbol of a Sicilian City. Atlas Obscura. https://www.atlasobscura.com/articles/saint-agatha-breast-cakes
*2——学研教育総合研究所(2019)「好きな色・嫌いな色(小学生白書Web版 2018年9月調査)」『学研教育総合研究所ホームページ』;https://www.gakken.jp/kyouikusouken/whitepaper/201809/chapter4/09.html
*3——株式会社クロス・マーケティング(2024)「色に関する調査(2024年)」『株式会社クロス・マーケティングホームページ』;https://www.cross-m.co.jp/report/trend-eye/20240228color
*4——1960年代から独立映画プロダクションが提供する低予算で製作されていた成人映画の通称である「ピンク映画」に対し、1970年代以降に日活で製作・配給された成人映画レーベルである「日活ロマンポルノ」は、比較的予算規模が大きく、自由度も高かったため、斬新な作品が多かったことで知られる。日活(日付不詳)「日活ロマンポルノとは」『日活ロマンポルノ公式サイト』;https://www.nikkatsu-romanporno.com/about/
*5——Chow, Y. F. (2017). Subcultures: Role of Media. In The International Encyclopedia of Media Effects. p.5
*6——嶋田美子『おまえが決めるな!──東大で留学生が学ぶ《反=道徳》フェミニズム講義』2023、白順社、p.61
*7——千人針とは、千人の女性が一針ずつ縫い玉をつけて文字や模様を描いた弾除けのお守り布であり、第二次世界大戦中に盛んに作られた。文化庁 (日付不詳)「千人針」『文化遺産オンライン』;https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/579266
*8——堀越英美『女の子は本当にピンクが好きなのか』2016、Pヴァイン、pp.45-51
*9——鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』2012、筑摩書房、p.14
*10——このような「自然」の遡及的な構築性を、哲学者のジュディス・バトラーは、「パフォーマティヴィティ」と呼んだ。バトラー, J.『ジェンダー・トラブル──フェミニズムとアイデンティティの攪乱(新装版)』竹村和子訳、2018、青土社